|
介護体験談呆け老人をかかえる家族の会 福岡県支部版
たんぽぽ(2004年5月7日 1305号)より 母ふたり福岡県 田中冨美子
姑を母と介護25年前父が亡くなり、2年後に母と同居。当時、すでに同居していた姑がアルツハイマーの初期で、物忘れ、徘徊、物盗られ妄想などがあり、通帳、印鑑を探し回る毎日でした。母とふたりでの介護でした。母が居てくれたから出来た介護だと思っています。子供達もふたりのおばあちゃんには私よりも優しく接してくれました。 姑と母はふたりでよく天神に出かけました。また、佐賀の古湯温泉にも好んでよく行き、何日間か滞在したりしていました。ツアーでの北海道旅行は、聞く方の我々は<よかったねぇ>で済みましたが、母にとってみれば、大変な旅行だったようでした。同居している両家の母が、それぞれの息子と娘からのプレゼントでこのツアーに参加したと話したら、皆さんが「わーぁ、いいお話ですねぇ」と拍手してくれてねえ・・・・と何度も何度も言ってくれました。年寄り2人旅、ツアーの皆さんに良くしていただいたと、うれしそうに話していました。 家族の会に入会し、例会などには姑も一緒に連れて行っていたのですが、世話人をお引き受けしてからは、作業日とか、夜の世話人会などには連れて行けず、そんな時、母が居てくれて本当に助かりました。母と私のどちらかが必ず家に居るようにし、母は好きな踊りのお稽古やお友達との食事会、温泉旅行など楽しんでいましたし、私も息抜きができました。 一夜にして母も20数年間アルツハイマーを患った姑が94歳で亡くなる半年前、2泊3日の検査入院で、今度は母が一夜にして呆けてしまったのです。 「このパジャマは私のではない・・」と放り投げ、同室の方たちにもいろいろ迷惑をかけ、夜中に呼び出されて病院に行った時には、とても母とは思えない凄い形相で暗い病院の廊下を肩をいからせて大股で歩いていました。膝が痛くて歩けなかったはずなのに・・・。 宅老所よりあいの“第2よりあい”に勤めていた私は、休暇をもらって母と向き合うことにしました。退院してから二晩一睡もせず訳のわからないことを叫び、かなり混乱していたのですが、3日目位から少し会話が出来るようになりました。しかし、もう母は現在ではなく、過去の世界に住んでいました。 着替えの順序がわからず、パジャマの上からパンツをはいたり、また尿意はあってもトイレまで間に合わず汚すことが多く、便意はなく出てしまってから気づき、その処置が出来ない。汚れた衣類を他のきれいな衣類の中に一緒に入れてしまう。お風呂もひとりでは無理で、身体を洗ったり、シャンプーなどは自分でできない、など以前出来ていたことが全く出来なくなってしまいました。 また外出もひとりでは無理で、階段の昇り降り、車の乗り降りなども見ていないとあぶない。動作が遅く一つ一つの行動に時間がかかり、話しかけていないと、気持ちが不安定になっていくという感じで、ひとりでは置いておけなくなってしまいました。 “宅老所よりあい”に相談し、通所することになりました。私の勤務日数を減らしてもらい、勤務の日はデイサービスを利用ということではじめました。母は利用見学の日から、行くのを楽しみにしていました。朝、私が送るときなど待ちきれず、あぶなっかしい足取りで、杖をつきながら団地の集会所まで行っていたことがあります。よりあいに行くたびに母の表情が落ち着きおだやかになっていくのが手にとるようにわかりました。 二度の入院を乗り越えて母はよりあいに喜んで通っていたのですが、その年の10月硬膜下血腫で入院、手術となり、同じ時間、姑の臨終と重なってしまいました。母の手術にはよりあいの職員の方と姉に頼み、私は姑の臨終に間に合い、丁度一週間の入院で、姑の初七日の日に退院となりました。 よりあい通所を再開し、私のバテタ日、また私が休めない日、と少しずつ利用を増やしてもらい、納骨の日とか母が夜寝ない日とかに泊まりもさせてもらうようになりました。母が「泊まっている人がいて、自分も泊まりたい」と言い出した頃でした。 翌年5月、いつものように母をよりあいに迎えに行って家に着いて、車から玄関に行く間、歩いていた時か、段を上がる時かに骨折、救急車で以前入院していた病院へ。股関節骨折の手術、退院までに一ヶ月。その間呆けている母には毎日付き添いが必要ということで、姉と交代で付き添ったのですが、2人ともバテテしまいました。一ヵ月後病院を退院することになって、その時私達の疲れも限界を超えており、付き添いがいらないでリハビリの出来る病院に転院しました。入院するたびに呆けがひどくなるのではといつも心配していたのですが、今度の病院でもとてもよくしてもらって、母もおだやかに過ごせ、私達も休むことが出来ました。母も混乱することなく退院でき、私達もゆっくり休めて、また普段の生活が戻ってきました。 朝、よりあいに送って行った時、玄関に入ると「や〜れやれ、帰ってきた」とほんとにほっとした表情で入っていったのをみて母がほんとに落ち着ける場なんだと思ったものでした。 その後、娘が二人目のお産で帰ってきました。曾孫との楽しい時間を過ごした後、今度はお産がすんで娘が帰るまで、長期によりあいで泊めてもらうことになりました。母はあまり混乱することもなく入院生活を送りましたが、「退院後、歩くのは難しいでしょう、今まで歩いていたのが不思議なくらいです。ベッドやイスの生活に変える方がいいでしょう。畳に座ったり和式の生活は無理でしょう」と言われて退院しました。 しかし母は今よりあいでトイレに行きたいと這っていったり、畳の上に座ってお茶を飲んだり、よごれたお茶碗を片付けると台所に行ったり、畳の上にお布団を敷いて寝ています。杖もなく両手で上手くバランスをとりながらペンギンのような格好ではありますが上手に歩いています。 それに母は恋をしました。30歳の若い男性職員です。彼のためにと言う気持ちが母のリハビリの大きな要素なのでしょうか? よりあいのグループホームに88歳になった母は昨年3月からよりあいに住んでいます。私がわかったり、わからなかったり、曾孫をみて孫と思ったり、でもおだやかな良い顔をしています。 古い家屋を改造して天井の梁とか、欄間とかは昔のままで、その中に新しいものを取り入れて、ちょっとした工夫で全てが見渡せて、それでいて自然で、とってもいいよりあいのグループホームに、今入れてもらっています。自分の部屋に、昔下関で使っていた茶棚を置き、亡くなった父と弟の写真を飾っています。時々、小遣いがないとか、買い物は何時行くのとか、何時来るのかとか電話をかけてきます。声を聞くと安心した表情になるそうです。もう私が誰かもわからないときもあるのに、時々顔を見せると落ち着くそうです。 何日か連れて帰ると、家だと思っているのかどうかわからないのですが、その後はなんとなく満足感みたいなものがあるのでしょうか。よりあいを自分の家みたいに思っているみたいです。 「家ってなんなのだろう」と思います。 母にとっての家、子供の頃の家、結婚してからの家、大阪、下関、そして福岡。何処にいても、<さあ帰ろう>と言う母。どこに帰ろうと思っているのでしょうか。第2よりあいのお年よりも、<さあ帰ろう>とよく言われます。それぞれの心の中にご自分の帰る家を思い描いておられるのでしょうか。 これからも母に会いに行って、時々連れて帰り、親孝行をしたいと思っています。
|