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介護体験談呆け老人をかかえる家族の会 宮城県支部版
ぽーれ ぽーれ(2002年7月29日 62号)より 「若かろうが、歳をとっていようが、夫は病気なのよ!」匿名
人生設計が根こそぎ音をたてて、崩れ去ってからはや7年目を迎えた。若年性アルツハイマー病の夫(脳梗塞から数えると13年になる)を一人での介護から入退院、施設入所の繰り返しへと移行していく苦悩の年月でした。この間、実父の長い入院があり、手厚い看護にもかかわらずその後他界し、また、義兄の急死などで疲れから自分も体調を崩してしまった。しかし、休むこともままならず、夫と実母の面倒を見なければならなかった。私がふとしたことから階段を踏み外し、骨にヒビが入り、更に通院生活を強いられている中で書き綴った手記の一部です。 初期の頃・・・初期の頃は「まだ働きたい」、「酒は飲みたい」、「自動車の運転はしたい」等、すべて半端じゃない欲望を言う夫の変貌に戸惑いながら、恐ろしくて夫から懸命に逃げよう逃げたいとなったが、影法師のように追いかけて来られた(その後、「家族の会」とご縁があり、『嫌なものから逃げたら倍になってくる。逃げるな』と教えられたが)。夫もきっと俺はどうなったんだと、もがき苦しんでいたであろうと今だから愛おしさと共に素直に思える私です。重度の失語症や激しい徘徊など、お互いの意思の疎通ができないという辛さ、悲しいほどにいらつく大変さと苦悩と共に過ごす地獄絵図そのものの日々でした。 病気は隠しておきたい・・・それが・・・。今でも嫌いな言葉に「若いのに仕事は」、「退職はまだでしょう」、「どこか身体でも悪いの」、等々、辺りから遠慮なく連発されるのですが、私はもううんざりで、“若かろうが歳をとっていようが、病気なのよ“とどれだけ叫び続けたのだろうか。決して悪意じゃないでしょうが、自分の身に降りかかってみて初めてわかる苦しさです。疲れ果てて、夫そのものの存在が疎ましい!、「早く来い来い60歳、年金が支給される年よ」と念仏のように叫んでいた年月でした。 その頃は周囲の人々には夫の病気を知られたくなかった、これは若さゆえか。心のどこかで夢、夢なのよ、朝になったら元気だった笑顔の素敵な夫に戻って“ヨォー”と声をかけられそうな気がして、あれもこれもウソ八百であって欲しいと思い悩んだことか。しかし、現実は夢でもウソでもなく、立派な病、そして病は確実に速度を上げて進行しつづけています。 介護の大変さが身に沁みてきた・・・私は長い長いトンネルの中に入り込んでしまい、365日、外で台風が荒れ狂ろうが、炎天下や猛吹雪であろうが夫と共に歩き続けなければならない、つらく、苦しさを伴って。いろいろな異常行動も半端じゃなくなってきている。やり場がないと夫に辛く当たったりすることもあって一人での介護の大変さが分かってくる。 しかし、その頃は私自身の心では金網でしっかりガードしていたようです。頭の中では夫は病なのだと理解しているのに、心のコントロールが効かず、身も心もボロボロ。心の中のポケットがストレスでぶっ千切れ始めて「死」の文字が目の前を舞い飛んでいた。「誰か助けて・・・」と叫んでいる自分。私が「こんなに助けを求めているのに」が頭を持ち上げてくる。 助けを求めて無謀な旅へ一人介護も限界だ、「もう駄目だ」。と、その時に無謀とも言える「旅に出よう」と決断した。もう一人の私は、「え!失語、徘徊の夫と旅に?」、そんなことなど考える力は失せていた。行く先で何が待っていようが、心の余裕はなかった。私は駄目になるか、こうなったら二人の命は天任せ、運まかせと決めた。春浅い3月、粉雪が風に舞っている中、それぞれリュックを背負い、想像を絶する二人旅に無鉄砲な旅に出ました。 最初のアクシデントは私がトイレにいっている間に夫が消えてしまったことである。トイレに行くから「ここで待っててね」がダメだった。あー知らない土地でどうしよう。私もパニック状態だったが、多分夫も私の姿を探して不安だったろうに。でも、やっとお互いに姿を見つけた時、夫の顔は安堵で“にっこり”。私は膝がガクガク、嬉しい反面悲しかった。でも、旅行を続けているうちに旅先が二人を暖かく喜んで迎えてくれたような気がします。きっと神様からの贈り物です!。いろいろ一杯いっぱいあったが、二人のはらはらどきどきの珍道中の始まりでした。仙台の息子の所に行ったときはとうとうパトカーのお世話にまでなっちゃった。 徘徊の頻発で旅行も中止へ!一昨年、私の誕生月7月の一泊旅を最後に、夫とは二度と旅に出ることができず、終止符を打たざるを得なかった。つまり、徘徊の度合いが坂道を転がる勢いで進行するようになった。その上、異食行為に拍車がかかり、この時期も悲しい程に切なかった。周りの方々には徘徊の都度、シャッターの開閉による騒音苦情、徘徊による色々な苦情等で、バカ、アホと言われ、おかしいじゃないかと呼ばれ続け、一口では言えない苦悩の日々が続いた。 夫は病気なんです。そして遂に入院・・・しかし、この辺りから夫の病に背を向けるのを少しずつ止めて、前向きになっていった。素直に周りの方々にお詫びし、“病”であることで理解を求めた結果、沢山の方々に助けられた。そして入院を決意し、入院をさせたが、これも辛いもので退院させたりした。自分を責め続けて、精神的、肉体的にまいり、苦しみました。しかし、苦しむだけ苦しんだらあとがない。その反動で跳ね上がり、迷いながらも前向きに考え抜いたのです。 失ったものも多いが、得たものも多い・・・夫の病気でどれだけのものを失ったのかなー、しかし、引き換えに得たものもかなりあった。多くの方々に助けられた。また、子供たちに、孫たちに苦労をかけて申し訳ないと思いつつ、甘えていた私。でも、子供たちや孫たちの優しさ、そして介護の一員として立派に役目を果たしており、どんな宝石よりもキラリと光り輝いていると自負しています。感謝しています。更に「家族の会」は心の宝です。 「家族の会」にめぐり合って「家族の会」を一昨年まで知らなかったが、ずーっと知らなかったらと思うと“ぞーっと”します。「家族の会」には本当に悩みをぶちまけていた。おかげで夫と接するときはイライラもせず、愛おしさで介護できることができた。多くの方々にもご縁を頂いて一人で悩まず、一人でも語らせる仲間を作ろうと思うようになった。『心の宝はいつも心の棚にある』、困ったらすぐノックする、ノックできる私は幸福です。 周りの方々に感謝しつつ、好きになった言葉。『怒るは無智、泣くは修業、笑うは悟り、苦労よこい』(苦労はほどほどにですが。)
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