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介護体験談呆け老人をかかえる家族の会 千葉県支部版
(2002年7月25日 264号)より 「いったい私は何者?義母との会話に悩む日々」浦 久子
痴呆とは無縁だと思っていた「俊ちゃん、お母さんの様子がおかしいけん、早く様子を見にこんかね。」 平成12年7月、九州に住む叔母からの電話だった。叔母の話によると、毎晩のように義母から電話がかかり、内容もはっきりせずおかしいと思って義母を訪ねてみたら案の定、何もせずただタンスをひっくり返しては、「お金がない。」の連発だったとのことだった。 一人暮らしだった義母は75歳とはいえ、年間のほとんどは広島に住む娘夫婦の家で孫の世話をしていたので、痴呆とは無縁だと思っていた。叔母の言葉を疑いながら夫と二人で郷里の義母の家へと急いだ。 義母の姿にショック!ショック!!義母の姿を見た途端、痴呆という文字が現実となった。髪の毛は伸び放題、お風呂にも入っていなかったらしく、臭った。食事もまともにしていない様で、大分痩せていた。しかも、最初に出た言葉が「お金がないけん。米が買えん。」すぐに風呂に入れ、美容院に連れて行った。 思い出した!広島から帰ったばかりの5月に、義母から涙声で「お金がないので送って欲しい」と電話があり、おかしいと思いながらも数万円を送ったのを。きっとあの時すでに症状が出ていたのであろうが、年のせいにしていたのかもしれない。 とにかく一人にはしてはおけないので、ご近所・親族に挨拶を済ませ義母をつれて帰ってきた。病院での診断の結果、やはり痴呆であった。来るべき時が来たと覚悟し、区役所での手続きを終え、痴呆である義母の状況や対応をどうしたらいいか、少しでも良い方向にもっていけないかと、保健所や役所など数カ所の窓口に相談した。しかし、「わからない」・「他に聞いてほしい」等、回答がもらえず悩んでいた。 義母はさっき聞いたり言ったりしたこともすぐに忘れ、何を言っても今初めて聞いたと言う。ちょっと物が見えなくなると「あんたが盗った」と嫁のせいにする。私は初めての経験に混乱していた。しかし、私しか義母の面倒を看る人がいない、これから一緒に暮らしていくしかないと覚悟はしていた。 笑顔に安心して通所そんな時、市政だよりを通して家族の会を知り、娘と参加することができた。その場で同じ環境の人が多いことを知り、内心“ホッ”とした。終了後、世話人の方より通所介護施設ホワイエのデイサービスを紹介された。通所の時が待ち遠しく、時間が経つのが遅く感じた毎日であった。 平成13年1月よりホワイエに通所できるようになった。初日、義母は施設に入れられると思い、怒って強く反発した。「覗くだけでも・・・、嫌だったらすぐに帰ってもいいから」と娘と二人で宥めて、やっとのことでホワイエの玄関に入ることができた。そこで、スタッフの方々の優しい笑顔に安心したのだろう、次の日からは抵抗することなく通っている。現在要介護度3。ホワイエ3日間・他のデイサービス2日間と週5日間を利用している。デイサービス先では自分もスタッフの一員だと理解しているようで、ホワイエでは台所仕事を手伝ったり、他の施設ではタオルをたたんだりと仕事と思ってでかけている。 ある時は妾、ある時は・・・家の中では一人息子である私の夫が、義母の夫になり従兄弟になり、他人になり・・・。嫁であるはずの私は時間になると何処からかやってきてご飯の支度をする妾になる。ある時は女将になり、「ご馳走様でした。おいくらになりますか、いまお金の持ち合わせが・・・」などと言ったりする。またある時は昔の友達になり・・・。等、一方的に変身させられている。常に義母とは夫をはさんで三角関係になっており、義母の心の中に一人息子を取られたくないという想いがそうさせるのでは。 「私は嫁よ!あなたはお義母さん。」と日々義母の言動を見て、病気だから仕方がないことと思えず、ついイライラして説明してしまうことも多くある。が、毎日わからなくても嫌がることなく通所してくれる事に感謝している。また、ホワイエでは元気を与えていただき、家庭においては夫・娘が良く協力してくれるので、これも感謝である。 いつだったか、ある本に“ハッ”とさせられた言葉が載っていた。「〜介護は大変であるが、自分の思いを否定し相手を許し愛していく事により、己の心を成長させて生きる場でもある〜」何度も読み返し、日頃の自分を反省する時間を与えていただいた。介護の入り口に立って間もない今、この言葉を胸に置きながら歩いていきたいと思う。先の長い見えない出口に向かって・・・。
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