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介護体験談呆け老人をかかえる家族の会 宮城県支部版
「ぽーれ ぽーれ」(2002年4月22日 60号)より 「母の「ぼけ」を認めたら・・・」三浦 庸子
最初に私の母親は現在84歳、戦争未亡人で過ごし、苦労を重ねて生きてきました。9年前までは、姉の家族と暮らしていましたが、50歳ごろからは膝が痛いとかで正座することができず、また、失禁を気にしてパットを使って過ごしていたようです。たまに逢う母の様子がとても気がかりで、もしかして痴呆の初まりではと感じていましたが、姉の家族は母の変化に気づくことなく、その対応が大変な状態でした。母は倦怠感、そして無気力で生きがいを失っている様を、家の仕事の忙しさに消し去られているのでした。「家族の絆ってなんだろう」と自問自答しながら、涙を流して帰ったことを今も忘れられないのです。 母との同居一日も早く母との生活をしようと自分に誓った矢先、私自身が交通事故にあい、5ケ月の入院生活を送ることになってしまい、手遅れを何度も心の中でお詫びしていました。入院の最中、自分が癒されていることに気づき、この思いを母と分かち合いたいと感じました。勿論、私の家族が一番の理解者でした。そして私の人生観も一変しました。退院してから、多少不自由な身体でしたが、やっと母の面倒を看ることにしたのです。 痴呆症との診断母との生活が始まるにつれてそれなりの考えが必要だと考え、先ずは医者に診ていただいたところ、「アルツハイマー型痴呆症」と診断され、痴呆と言う病気であることをはっきり知りました。私は痴呆を十分理解することに努力しようと考えました。母は「ぼけ」なんだからと認め、「ぼけ」で付き合うことにしたのです。そう思ったとき私の気持ちが楽になった気がしました。 更に、私がストレスにならないためにも、「お母さん日記」をつけることにしました。母は糖尿病もあったので、「食事療法」を重点に記すことにした。また、禁止文句等の命令的な言葉は慎むようにしようとも思いました。 母を生まれ故郷へ痴呆症独特の行動、言動等は例外ではなく、娘である私を未だ娘だと言うことなく、何処でどうしているとも解らない毎日の生活です。私は最後の親孝行と思い、母が生まれ育ち、長年にわたり暮らした漁港の小さな集落にある廃屋を建て替え、移り住んでもう4年になりました。昔の顔見知りの人を見る目がとても嬉しそうで、そんな母の姿を見て「よかった」と心からほっとしています。一方、外見は五体満足に見える母のおかしな言動が多いのに納得がいかず、「何度教えても忘れるんだから」とどうしても痴呆が理解されない自分に苛立つこともありました。昔からボケが居なかったわけじゃないのですが、この地域ではボケは恥じだと感じている人が多く「老人は家から出してはいけない」のだそうです。ボケは恥ではないことで、過去どんな立派な人であっても今を認めてあげることが大切だと信じます。 母との付き合い方「要介護4」の母は箸を持ってかろうじて食べられる以外、すべて手助けが必要ですが、(本来であれば寝たきりの状態だろうと思う)、でも、一日のメリハリをはっきりさせるように努力しています。そのためにお陰さまで立派な役者になれそうです。今はとにかく一日を機嫌よく穏やかに過ごしてもらうことに気をつけております。介護する側も助かるのです。このスタイルこそが先の見えない生活からのささやかな脱皮なのです。 ボケとの付き合い方介護サービスを利用することも賢い選択かと感じました。借り手が多いほど介護者には必要だと思います。仲間との出会いも必要だし、その中で感性も磨かれ感受性も豊かになれると信じます。 ボケることは、老化の姿であり、自然の摂理だと思うようになりました。老人は無力感であるし、家族への遠慮等で弱者になっていることを家族は勿論、近隣の方ももっともっと理解を持ってもらいたいと強く望みたいのです。 私の願いそして、母の痴呆も穏やかな毎日が続き、一日でも一秒でも長く生きてて欲しいと願うのみです。介護の最後は何時なのか、道のりのない不安な毎日ではあるのですが。 人間老い方、老いると言う意味と沢山の問題を私に残してくれ、親はいつまでも親なんだとつくづく思い知らされています。 「お母さんありがとう」心から感謝します。
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